top of page
執筆者の写真理事長 森 顕子

プラス・エデュケートを始めた理由 part3


 今から約10年前のことです。たまたま大学の同級生で、モンゴルで日本語教師をしていた友人が、亡くなるという悲しい出来事がありました。(『モンゴルの日本人女性殺害現地のホームレス男を逮捕』 https://blogs.yahoo.co.jp/yuji873/10921053.html)

 急遽彼女を偲ぶための同窓会が開かれました。そのときに、以前は海外にいる外国人に日本語を教えるのが日本語教師の主流だったのに、今では日本に多くの定住外国人の子どもがいて、彼らへの日本語教育が必要なのだということを知りました。そしてその専門的な知識をもった指導者が足りないのだということも。


 人生には、キーパーソンやターニングポイントと言われる出会いやきっかけがあるといわれますが、まさしく私にとってはこの時でした。そろそろ40歳になるという頃で、出口の見えない不妊治療に心身ともに疲れていた私は、「妊娠という不確実な可能性にかけるより、今すでに生まれている命で、困難な状況にある子どもたちに手をさしのべよう」と瞬間的に思ってしまったのです。そしてそうすることが、志半ばにしてこの世を去った友人の遺志を継ぐことにもなるとも。今振り返ると、それは治療からの「逃避行動」だったのかもしれませんが‥‥。


 それまで治療のために貯めていた貯金をすべて外国にルーツを持つ子どもたちのために使おうと決め、物件を探し始めました。当時多くのボランティアさんがやっている日本語教室は、公共の施設利用だと毎日は借りることができず、せいぜい1週間に1日か2日というところがほとんどでした。私は塾講師の経験から、語学学習には継続が必要で、かつ外国にルーツをもつ子どもたちは、その家庭環境から「居場所」としての場が必要だと考えていました。ですから、教室は常時使用できなければならないと思っていました。


 愛知県豊明市にある団地の一室を借りることにしたのは、家賃が想定内だったからです。そしてもう一つの大きな理由は豊明市が、豊明団地に外国人のほぼ90%が住む「集住地域」だったからです。集住地域に教室を構えることで、1人でも多くの子どもを救えるのではないかと思いました。さらに、豊明市の担当の方が非常に熱心であったことと近くに大学があり、学生ボランティアを確保できるのではないかという期待もあって、今の場所にプラス・エデュケートを開くことを決めました。


 私の一連の行動について、何も言わず応援してくれた夫には、感謝あるのみです。経費を少しでも浮かせるために、教室の壁紙を、夫と二人で汗だくになってはりました。そして2009年夏に外で遊んでいたブラジル国籍の子ども3人に「一緒に宿題をやらないか」と声をかけました。初めは警戒していた子どもたちも、次第に打ち解けてくれ、ある日宿題を持って、「先生、教えて」と教室の中に入ってきてくれました。


 サユリさん・カオリさん・ナオキくん。

この3人が私の初めての生徒となり、プラス・エデュケートの活動が始まることになったのです。



 


閲覧数:752回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comentarios


bottom of page